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サイドバックは攻守の生命線
スピーディーな攻撃を展開するためには、サイドバックに優秀な選手が不可欠です。
これまでJリーグでは、数多くの名サイドバックが誕生しました。
攻撃的な選手だったり、守備的な選手だったり、戦術によって求められるタイプは様々ですが、どんな展開においても計算できる攻守のバランスの良さが最も必要な要素になります。
今回はJリーグの歴史の中で印象に残った右サイドバックの選手を紹介していきます。
ドーハの悲劇を経験した元祖右サイドバック 堀池巧
幼少期からそのサッカーセンスは注目を集め、順天堂大学時代から日本代表に選手された堀池選手。
大学卒業後は読売クラブ(現東京ヴェルディ)に入団し、Jリーグ開幕時には清水エスパルスに所属しました。
攻守のバランスに優れ、1対1でも強さを発揮。
1994年アメリカワールドカップを目指す日本代表の不動の右サイドバックとして存在感を示しました。
Jリーグのオールドファンなら、右サイドバックといえば堀池選手を思い浮かべる人も多いのでは。
日本代表としても58試合に出場しています。
ワールドカップで初めてプレーした日本人 名良橋晃
日本人として初めてワールドカップに出場した右サイドバックとして名を残す名良橋晃選手。
豊富な運動量で攻守に渡って活躍し、左サイドバックの相馬直樹選手とともに、日本代表の代えのきかない両翼として君臨しました。
迫力のあるオーバーラックから繰り出されるクロスから何度も得点が生まれました。
日本代表として38試合に出場し、ワールドカップに1度出場しました。
フランスワールドカップでは、足の裏の皮がはがれてしまうというアクシデントに見舞われ、持ち味が発揮できなかったのが残念。
名良橋選手といえば、強面の外見とギャップのある面白味のあるキャラクターも人気です。
17歳で日本代表に! 市川大祐
高校在学中の17歳の時にJリーグデビューを果たすと、岡田武史監督により、17歳で日本代表に選出された記録の持ち主である市川大祐選手。
スペースを突いた効果的な飛び出しと、アウトスイングのかかった正確な高速クロスでアシストを連発する姿は、とても高校生とは思えないプレースタイルでした。
残念ながら1998年フランスワールドカップ日本代表からは落選してしまいますが、2002年日韓ワールドカップでは、チュニジア戦で中田英寿選手のヘディングゴールをアシストするなど活躍。
17歳で鮮烈なデビューを飾って以降、怪我や病気で欠場する機会も多かった市川選手ですが、19年に渡って現役生活を送るという息の長い選手でした。
左右どちらもスペシャリストと言えばこの人 駒野友一
左右両方正確なキックが蹴れることで、左右のサイドバックをハイレベルで対応できる駒野友一選手。
母子家庭で育ちながらも、努力を惜しまず日本代表になった苦労人としても知られています。
フィジカルが強く、攻守のバランスの優れたサイドバックとしてクラブでも代表でも重宝されました。
器用な選手であり、どちらのサイドバックでも出来るという特性があるということで、逆にバックアップに回るという機会も多かった駒野選手。
2010年にはパラグアイ戦で不運にもPKを外してしまったことでクローズアップされたこともありますが、誰も駒野選手を責めなかったところに彼の人間性の優れた所が垣間見れました。
日本代表としては78試合に出場し、ワールドカップに2大会出場しています。
サイドバック新時代を開拓した若き侍 内田篤人
高卒新人ながら、名門鹿島アントラーズで右サイドバックのレギュラーを掴むと、日本代表、そしてドイツのシャルケ04に移籍するという、理想のステップアップを実現した内田選手。
歴代の右サイドバックにおいて、そのスピードは群を抜いており、オープンスペースに走りこんでからの正確なクロスは一級品。
鹿島時代は数々のタイトルを獲得し、シャルケ時代は日本人で初めてベスト4入りを実現しました。
内田選手の長所といえば、スピードが挙げられますが、どんなタイプの選手とも高いレベルで合わせられるプレースタイルの柔軟さも魅力でした。
日本代表としても74試合に出場し、ワールドカップに2度出場した実績があります。
日本代表としてのキャリアは10試合に出場し、ワールドカップに1度出場しています。